当社グループは三菱の始祖・岩崎彌太郎による九十九商会(三菱商会の前身)の鉱業部門をルーツとしており、国内外の事業所は明治、大正時代に操業開始したものも少なくありません。
このページでは、当社グループの広報誌「まてりある」に掲載した、歴史ある事業所の紹介記事を貴重な写真と共にお届けいたします。
第三十三回は、1950(昭和25)年4月、過度経済力集中排除法により三菱鉱業(株)(当社前身)より分離独立した太平鉱業(株)(当社前身、1952年三菱金属鉱業(株)に改称)が大手ビル(後、三菱金属ビルに改称)を建設するため、1950年6月ビルの所有管理を目的として設立した大手不動産(株)(2004年、三菱マテリアル不動産(株)に改称)です。ビル賃貸管理会社として発足し、1960年代後半より不動産取引事業にも進出。マテリアルグループの不動産部門中核会社として総合的な事業展開により堅実な発展を遂げています(2018年、グループ外に譲渡)。
第三十二回は、三菱鉱業(株)(当社前身)の経営多角化の一環として1955(昭和30)年に崎戸砿業所(長崎県西海市崎戸町の炭鉱)において製塩事業に着手し、本年創立62周年を迎えるダイヤソルト(株)(1995年に崎戸製塩(株)から社名変更)。斜陽化が進む石炭産業から活路を拓くため製塩事業に進出、関係者の皆さんの長年にわたる尽力で着実に発展し、今日、わが国トップクラスの製塩会社に。さらに海水の無限の可能性を追求するファインケミカル事業にも取組んでいます。
第三十一回は、国内では珍しい民間研究機関「鉱業研究所」として発足し、2017年6月に創立100周年となる中央研究所。三菱合資会社の岩崎小彌太社長(三菱財閥4代目総帥)の慧眼によるスタートでした。日本の近代化を担い産業界が必要とする先進的材料・技術の研究開発に邁進し、幾多の輝かしい成果を挙げる足跡を刻んでいます。そして今、激動を逞しく乗り越えてきた研究者の英知と情熱を結集し、さらなる飛躍を目指しています。
第三十回は、原子燃料サイクル事業を日本の先駆けとしてリードしてきたエネルギー事業センター。原子力平和利用のため安全な原子燃料の加工、使用済み原子燃料の再処理、放射性廃棄物の処理処分等、原子燃料サイクルを確立する総合的技術開発により日本の原子力発電を支えてきました。また、福島原発事故後は、除染・環境修復事業においても蓄積した原子燃料サイクル技術を駆使して復興にも貢献しています。
第二十九回は、高純度多結晶シリコンの製造を行う四日市工場。エレクトロニクス産業のベースとなる高純度多結晶シリコンの国内唯一の専業メーカー・高純度シリコン㈱として1967(昭和42)年にスタート。2007年に当社四日市工場となり、来年は創業50周年。驚異的な発展を遂げてきた半導体産業のキーマテリアルメーカーとして、弛まぬ研鑽により世界最高水準の品質と高い生産効率を誇っています。
第二十八回は、1953(昭和28)年に三菱金属鉱業(株)(当社前身)が戦後復興を担う亜鉛需要に応えるため最新技術を結集して秋田市・茨島に新設した秋田製錬所。豊富な電力を利用して高品質の電気亜鉛を製造し大きく発展しましたが、1980年代より電力費の上昇、金属価格の低迷等に遭遇し、1996(平成8)年に生産中止を余儀なくされました。現在、広大な敷地を利用してマテリアルグループ各社が積極的に事業を展開し、引き続き地域振興にも貢献しています。
第二十七回はセメント製造を行う横瀬工場。1954(昭和29)年に三菱鉱業(株)(当社前身)が経営多角化のため新規参入したセメント事業において、国内最大需要地の関東市場への進出は当初からの重要戦略。しかし事業インフラ整備に歳月を要し、1969年に当時最新鋭の技術を結集して無公害・省力化を実現したモデル・セメント工場としてスタート。常に時代の先端をいく技術革新に挑戦し、人と社会と地球のために貢献を続けています。
第二十六回は岐阜製作所。超硬工具事業の拡大を図るため、旧東京製作所(東京・品川区;現筑波製作所)に加えて、中京・関西地区のお客様への安定供給と技術サービス向上を期して1972(昭和47)年に岐阜県安八郡神戸町で新工場建設着工、翌年4月より生産開始。世界制覇を目指すトヨタ自動車工業(株)(現トヨタ自動車(株))のトヨタ生産方式(カンバン方式)を導入、お客様のものづくりを支えるマザーツール工場として発展を遂げています。
第二十五回は三菱マテリアル電子化成(株)。そのルーツのひとつは、1938(昭和13)年に「東北の農業に化成肥料を供給」するため設立された東北肥料(株)、もうひとつは「これからは半導体金属の時代」との先見性により1959年に設立された日本電子金属(株)です。両社は産業構造や事業環境の激変に対応するため一体化し、今日発展を遂げる半導体関連などで高い機能を有するファインマテリアルを供給し、豊かな社会づくりに貢献しています。
第二十四回は、セメント事業参入を計画した三菱鉱業(株)(当社前身)が石灰石採掘を行うために1952(昭和27)年に設立した筑豊石灰工業(株)において北九州市平尾台石灰石台地で有望鉱区を取得し、1955年から開発を始めて今年60周年となる東谷鉱山(1963年三菱セメント(株)と合併)。創業以来自然環境保護と安全を最優先した操業により、セメント工場への石灰石の安定供給を果たすとともに地域振興に貢献しています。
第二十三回は、鉱山事業を積極的に推進していた三菱鉱業(株)(当社前身)が、1934(昭和9)年に宮城県栗原郡鶯沢村に所在した共立鉱業(株)細倉鉱山を買収してから今年80周年となる細倉金属鉱業(株)。最高水準の鉱山技術を駆使した大規模開発により日本でトップクラスの鉛・亜鉛鉱山へと成長。戦後、円高等で厳しい経営環境となり1987年閉山。以後は自動車の廃バッテリーから鉛を回収する事業を中心に循環型社会の構築に貢献しています。
第二十二回は、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年に三菱鉱業(株)(当社前身)新潟金属工業所としてスタートし、終戦後は電気製品や自動車向けの各種粉末冶金(焼結部品)事業を拡大、2014年に創業70周年を迎えた(株)ダイヤメットです。戦時下、終戦後における製造品目の激変を一丸となって乗り越え、焼結部品をもって再生・発展を遂げ、地域振興にも貢献するとともに現在は世界をリードする製品群によってグローバル展開を加速しています。
第二十一回は、1542(天文11)年に銀鉱石の本格採掘が始まり、徳川時代に最盛期を迎え、明治新政府が洋式採掘技術を導入して近代化を図り、三菱合資会社に払い下げられた生野鉱山(現生野事業所)。国内有数の大鉱山として1973年の閉山まで400年以上にわたり稼行(跡地で(株)シルバー生野が観光事業開始)。また、1953年から操業を始めた生野製作所も、2000年より生野事業所として新たなスタートをし、地域振興に貢献しています。
第二十回は、1958(昭和33)年、東北開発・振興のための国策会社・東北開発(株)において、地元に豊富に存在する石灰石資源を活用して社会インフラ整備の基礎資材となるセメントを生産・供給する目的でスタートした岩手工場です。明治維新以降、開発・振興が後れてきた東北において、本格的な産業振興・インフラ整備を担う基幹事業として東北の発展を牽引してきました。
第十九回は、1963(昭和38)年に三菱金属鉱業(株)(当社前身)を中心に同和鉱業(株)、古河電気工業(株)、古河鉱業(株)、並びに三菱電機(株)以下三菱系6社の共同出資により「臨海大型共同製錬所」としてスタートした小名浜製錬(株)。輸入自由化に備え、海外鉱山からの銅精鉱の大量輸入が可能な臨海で、かつ国内最大需要地に近い「小名浜」に先進技術を結集して新製錬所を建設、以来、高品質な銅の安定供給によりわが国産業経済の発展を支えてきました。
第十八回は、1962(昭和37)年に米国レイノルズ社からの技術導入により、アルミニウム圧延メーカーとしてスタートした三菱アルミニウム(株)。新しい金属・アルミの製法発明から約半世紀後に当社の前身三菱鉱業(株)が台湾にてアルミ製錬に着手、戦後撤退後17年を経て念願の再出発を果たし、以来、産業経済の発展を担ってきました。
第十七回は、およそ1300年前、708(和銅元)年に銅鉱が発見されたと伝えられる尾去沢鉱山(秋田県鹿角市)。平安時代から江戸時代にかけて金山として栄え、明治維新以降は、三菱合資会社によって、わが国屈指の銅鉱山として繁栄しました。1978(昭和53)年に銅価の低迷、鉱石の枯渇により閉山。現在は石切沢通洞坑などを観光坑道として整備した「史跡尾去沢鉱山」となり、全国から多くの観光客が訪れています。
第十六回は、超硬工具原料のタングステン粉などを製造・販売し2013年に創業50周年を迎える日本新金属(株)。そのルーツは、1909(明治42)年、粟村敏顕((株)粟村鉱業所創業者)がわが国初となる「重石鉱」(タングステン鉱石)発見にあります。需要と価格の変動が激しい希少金属業界にあって、1963(昭和38)年、三菱金属鉱業(株)(当社前身)との共同出資による日本新金属(株)がスタート。希少金属への慧眼と社員の皆さんのたゆみない技術研けん鑽さんにより、永年にわたりハイテク素材のパイオニアとして躍進しています。
第十五回は、新潟県佐渡市にある(株)ゴールデン佐渡。そのルーツは1896(明治29)年皇室財産であった佐渡鉱山が三菱合資会社(当社前身)に払下げられたことにあります。佐渡金山の発端は1601(慶長6)年に遡ります。以来、1989(平成元)年の操業休止まで388年間にわたり金銀の産出によってわが国財政基盤を支えてきました(なお、ゴールデン佐渡社は秋田県の史跡尾去沢鉱山も管理・運営していますが、そのルーツ・尾去沢鉱山については別の機会に紹介いたします)。
第十三回は、2012年10月に創業40周年を迎えるユニバーサル製缶(株)。そのルーツは三菱金属鉱業(株)(当社前身)富士小山工場に。当時、米国で急速に伸びていた「アルミ飲料缶」に挑戦。相次ぐ技術革新、地道なリサイクル活動を継続し、わが国の飲料容器革命を担ってきました。2005年、北海製罐(株)のアルミ缶事業部門と統合し、ユニバーサル製缶社として新たなスタート。幾多の苦難を乗り越えた英知を糧に着実な歩みを続けています。
第十二回は、2011年12月にわが国初のハイス(高速度鋼)ドリル生産開始100周年を迎えた明石製作所。そのルーツは、(株)神戸製鋼所ドリル工場にあります。1911(明治44)年、当時世界最先端の「ハイスドリル」に果敢に挑戦。相次ぐ技術革新を重ねながら、マザーツールとして日本の産業発展に貢献してきました。現在も、歴史に裏づけされた豊富な技術と人財をベースに、より大きな未来に向けて力強く歩み続けています。
第十一回は、アジアNo.1の伸銅メーカーを目指す三菱伸銅(株)。そのルーツは、東に若松製作所、西に三宝製作所と二つあります。共に80年を超えて日本の伸銅業界に大きな足跡を刻んできましたが、2008(平成20)年にマテリアルグループのシナジー効果を具現化すべく経営統合し、旧両社が蓄積した豊富な技術と人財をベースにたくましく前進しています。
第十回は、トータルエンジニアリング&コンサルティング会社の三菱マテリアルテクノ(株)。そのルーツは、1958(昭和33)年、三菱金属鉱業(株)(当社前身)が経営および技術支援を行ってきた電気工事会社三恵電工(株)を時代のニーズに合わせてより強固にするため、大手興産(株)を設立したところにあります。以来、同社は三菱マテリアルグループ各社の技術革新を支え、グループの発展とともに変革と成長にチャレンジしています。
第九回は、電子デバイス(部品)のマザーファクトリー、セラミックス工場(埼玉県横瀬町)。そのルーツは、1972(昭和47)年、三菱セメント(株)(当社の前身三菱鉱業(株)子会社)中央研究所にて新規事業開拓の一環としてセメント鉱物中の酸化鉄の電気的特性に着目したところにあります。以来、「重厚長大」のセメント産業から「軽薄短小」のエレクトロニクス分野へと果敢に進出し、今や世界のマーケットで、ダイナミックな展開を図っています。
第八回は、非鉄金属リサイクル事業を営むマテリアルエコリファイン(株)。そのルーツは、1958(昭和33)年に大手興産(株)(現三菱マテリアルテクノ(株))が設立され、三菱金属鉱業(株)(当社前身)より設備メンテナンス・製錬化成・鉱山開発部門を継承したことに遡ります。その後、製錬化成部門が大手金属(株)(現マテリアルエコリファイン社)として分離独立、以来銅、アルミ、亜鉛、錫、レアメタルなどの非鉄金属の「遺利回収」事業に特化、リサイクル時代のパイオニアとして豊かな社会づくりに貢献しています。
第七回は、主要資源のなかで唯一国内自給可能な鉱物資源・石灰石の有効活用と共に歩んで半世紀を超える菱光石灰工業(株)。同社は、創業以来長年にわたって技術研鑽を積み重ね、良質の石灰石の採掘・供給と、お客様のニーズに応える高品質石灰製品を製造・販売することにより、豊かな社会づくりに貢献しています。
第六回は、2011年に工場移転20年目を迎えた筑波製作所。そのルーツは1930(昭和5)年春、三菱鉱業(株)鉱業研究所(中央研究所の前身)の第3研究部に焼結超硬合金商品化のための「工業実験室」設置に遡ります。つまり創業80年。鉱山会社の事業多角化戦略のもと、日本の自動車をはじめとする各種産業の発展を担うマザーツール「超硬工具」事業は、その後幾多の困難を乗り越えて世界へと発展を遂げています。
第五回は2009年6月に30周年を迎えた青森工場。そのルーツは1979(昭和54)年6月に日本で最新鋭のセメント工場として青森県下北半島尻屋の地で操業を開始。東北の産業振興・インフラ整備を担って高品質セメントを大量に生産・出荷する使命を持ってスタートしました。
第四回は、2009年10月に20周年を迎えた三田工場。そのルーツは第三回で紹介した堺工場と同様、1891(明治24)年に設置された宮内省御料局生野支庁附属大阪製錬所。1896年に三菱合資会社(当社の前身)に移管後、わが国近代化をささえる金・銀・銅などの生産を行ってきました。そして1980年代、軽薄短小の時代を迎え、電子材料・貴金属加工品などの分野で積極的な事業拡大を図り、1989年に生産拠点を兵庫県三田市のテクノパークに移し、新たなスタートをしました。
第三回は、2009年10月に20周年を迎えた堺工場。そのルーツは、1891(明治24)年にわが国で最初に電気分銅事業を工業化するために設置された宮内省御料局生野支庁附属大阪製錬所にあります。同所は1896年に三菱合資会社(当社の前身)に移管され、一世紀にわたってわが国近代化をささえる金・銀・銅などの生産を行ってきましたが、1990年に大阪府堺市に移転し、銅加工工場として新たなスタートをしました。
第二回は、地元事業家小畑秀吉氏によって1920(大正9)年に操業開始した豊国セメント(株)苅田工場。戦後、セメント業界に参入した三菱セメント(株)(三菱鉱業(株)子会社)との提携・合併により、今日日本でトップのセメント工場に発展を遂げた九州工場(1994年に名称変更)です。
第一回は、1917(大正6)年、三菱合資会社による三菱の中央製錬所として瀬戸内海の直島にて操業を開始、わが国近代化を支える銅をはじめとする各種金属の生産を90年以上にわたって続けている直島製錬所です。