3世代は当たり前!
4世代で働く従業員がいる

#03
社員

三菱マテリアルの事業所は、地元に深く、長く根付いていることが特長。1917年に創業した直島(なおしま)製錬所は、人口およそ3,000人の島に立地していながら、関係会社を含めおよそ1,000人の従業員が働いています。その中にはなんと!ひいおじいさんの代から4世代続いて勤務している従業員も。愛され続けて150周年の三菱マテリアル。その影には、4世代で愛してくれている従業員がいることも事実なのです。
そして直島は住民同士の繋がりが強い土地。友達や親戚がどの部署にもおり、面識がない人であっても、よくよく聞けば父や祖父の知り合いだったりも。歳の離れた先輩でも、子供のころからの気の知れた間柄で仲良く和気あいあいとした雰囲気でやりとりしています。そんな和やかな雰囲気から、島外出身者も家族のように団結して働いています。
仕事の上でも和気あいあい。入社して間もない従業員でも、気軽に連絡を取り合って連携したり、銅製錬所の操業という難しい仕事も教えあうことができたり、それが現場の強さにつながっています。父の部署が前工程を、子の部署が後工程を担当し、親子で職場の状況を聞き合うなんてこともあるようです。つながりの強さはまさに“金”メダル級の事業所なのです。

―実際に4世代で働く従業員にインタビューしてみましょう。まずはじめに、自己紹介をお願いします。

下津幸司さん(以下、「幸司」)貴金属課の下津幸司です。銀アノード(※1)を鋳造・電解する仕事をしています。

下津翼さん(以下、「翼」)保全動力課に勤務している下津翼です。電気系統のメンテナンスや新規設備の導入などに関わっています。幸司とは従兄弟にあたります。

森上駿稀さん(以下、「駿稀」)同じく貴金属課の森上駿稀です。金塊の原料となる金粒を作る仕事をしています。

森上拳士郎さん(以下、「拳士郎」)銅熔錬課の森上拳士郎です。銅鉱石を高温で熔解して製錬する部署で働いています。駿稀の弟です。

新宮大聖さん(以下、「大聖」)硫酸課の新宮大聖です。銅熔錬課で発生するガスを元に硫酸を製造しています。

―皆さんはひいおじいさんの代から直島製錬所に勤務されていたということですが、どんなお仕事をされていたのでしょうか。(※2)

幸司)私の父は排水・リサイクル課というところで、製錬所の排水処理の仕事をしています。もう69歳ですが、再雇用後も引き続き働きながら後進を育成しています。祖父は製錬所で使われる装置の検査や部品の仕上げ加工を行う職人でした。製錬所内の発電所の運転管理もしていたようです。曾祖父はハンマーを使って銅のバリ取り(※3)をしたり、天秤棒を使って鉱石の荷下ろしをしたりしていたようです。

翼)私の父は銅熔錬課で働いていました。中学を卒業してすぐに、当時の三菱金属が作った職人の養成所に入り、そのまま働き始めました。三菱連続製銅法(※4)が発明される前から、銅熔錬の現場を支えてきた職人です。現在は分析装置を扱う仕事を後任者に引き継いでいます。祖父、曾祖父は幸司の言った通りです。

駿稀)私と拳士郎の父は硫酸課で係員(※5)をしています。父方の祖父は銅熔錬課の後、銅電錬課で銅の電解精製をする仕事をしていました。父方の曾祖父は、当時あった錫製錬課で錫を作っていました。

拳士郎)硫酸課だけでも、父もおじもいますし、母方の祖父も硫酸課にいました。母方の曾祖父は、岡山県側から海底導水管を島内に引く仕事に携わったそうです。

大聖)私の父は銅熔錬課で係員をしています。母方の祖父が銅熔錬課、父方の祖父は発電所で働いていました。母方の曾祖父は総務課で、父方の曾祖父は硫酸課で働いていました。

1947年の社宅群

―三菱マテリアルに就職することについて、学生のころはどう感じていましたか。

翼)私が小学生のころ、同級生の6~7割は三菱マテリアル関係者の家庭だったように思います。そんな環境でしたから、小学生のころから三菱マテリアルで働くことが夢でした。

拳士郎)進路を選ぶときに、曾祖父から続けて三菱マテリアルに勤めていることはやはり意識しました。直島の人には、三菱マテリアルなら間違いないという意識があると思います。

駿稀)親からも、三菱マテリアルは安定していてよい就職先だと言われました。中学校の同級生男子が15人いましたが、そのうち7人が三菱マテリアルに就職しました。ほかにも関係会社に就職した人や、Uターンで就職してきた人もいます。

幸司)子供のころ、親が仕事から帰ってきて仕事の話を聞いて、自分もやりたいなという気持ちが芽生えました。それに、故郷を離れずに仕事ができるのも魅力でした。

―会社に親族や知り合いが多くいる会社で仕事をするのはどんな感覚ですか。

駿稀)直島は住民同士の繋がりが強い土地で、友達や親戚がどの部署にもいます。6歳離れた先輩でも、子供のころからの気安い間柄で仲良く和気あいあいとした雰囲気でやりとりできます。自分は知らない人でも、父や祖父の知り合いだったりもします。

拳士郎)入社時、うまくなじめるかどうかといった不安はありませんでした。仕事の上でも気軽に連絡を取り合って連携することができますし、銅製錬所の操業という難しい仕事も教えあうことができ、現場の強さにつながっています。父の部署は私の部署の後工程なので、父から自分の職場の状況を聞かれることもあります。

大聖)現場での仕事は汚れることもあるので、直島製錬所の更衣室には大きなお風呂があります。そこで風呂につかりながら友達と話をすることもありますね。

1947年の粗銅鋳造風景

―仕事以外の部分でも、三菱マテリアルと地域社会との繋がりはありますか。

駿稀)直島で大きな山火事があり、私の家のすぐ近くまで火の手が来たことがあります。山林が焼け落ちショックな出来事でしたが、その後三菱マテリアルが主催した植樹活動(※6)に参加する機会がありました。山火事を経験したからこそ、昔の緑を取り戻し、地元に役立ててうれしかったのを覚えています。今では青々と森が茂っていて、近くを通るとその時のことを思い出します。

翼)私は直島製錬所サッカー部に所属していて、従業員だけでなく住民の方々ともいっしょにチームを組んで、高松などで試合することもあります。他にも、三菱マテリアルの作った「鷲の松運動公園」のフットサルコート(※7)で月に2回子供たちにサッカーを教えています。テニスを教えている人もいます。

拳士郎)鷲の松運動公園はほとんどの従業員の通勤路にあるので、帰り道に知っている子供たちが元気にスポーツをしているところが見られて和みますね。社外の知人とテニスをすることもありますが、こんなに立派なテニスコートを無料で使えるのかと驚かれます。

幸司)高校生のころ、三菱マテリアルのバレー部と一緒に試合に出て、入社してそのまま入部しました。他にもサッカー、野球、バドミントンなどいろいろな部活動を体験しました。最近はコロナでできていませんが、運動した後はそのまま会社のクラブ(※7)で飲み会ができます。