直島製錬所百年のあゆみ

1917年に設立され、1世紀に亘って操業を続けてきた三菱マテリアル直島製錬所。
「技術無限」の魂宿る、進歩の歴史をご紹介します。

創業以前 「三菱」の鉱山経営進出

創業 国家躍進を担う中央製錬所として

終戦後の混乱 操業停止と財閥解体

三菱連続製銅法の確立 世界最先端「夢の製銅プロセス」

リサイクル事業への進出 人と社会と地球のための新事業

沿革

創業以前 「三菱」の鉱山経営進出

1873(明治6)年、岩崎彌太郎(※1)率いる三菱グループの源流企業「九十九商会」は、吉岡鉱山(岡山県)の買収を端緒に金属鉱山経営へ進出しました。
当時は「日本坑法(1873年発布)」により鉱物の売買が禁じられていたこともあり、採掘した銅鉱石をその場で製錬する「山元製錬」が主流でした。

※1:土佐藩出身の彌太郎は、坂本龍馬ら維新の志士たちと深く関わりながら、経済官僚・実業家として幕末~明治における近代化の基礎を築きました。

創業 国家躍進を担う中央製錬所として
黎明期の直島製錬所 全景(1929年撮影)
黎明期の直島製錬所 全景(1929年撮影)

重工業の発展や電気事業の拡大によって日本国内で銅の需要が増大していた1917(大正6)年。
山元製錬では採算の取れない小規模・低品位鉱山も含め、各地から鉱石を集め一括して製錬する「中央製錬所」が国家的に必要になりました。
そんな中、三菱第4代社長岩崎小彌太(※2)指揮のもと、待望の中央製錬所が直島に作られました。

※2:小彌太は現在でも三菱各社の行動指針となる「三綱領」を制定するなど、企業活動を通じた社会奉仕を特に重視する人物でした。

「直島」という土地

瀬戸内海沿岸地域は多くの銅鉱山が立地しており、中央製錬所建設に向いた環境でした。三菱は当初隣の豊島への建設を計画していましたが、農業が盛んな土地柄でもあり地元関係者の支持を得られませんでした。

この時、基幹産業誘致に積極的だった直島村との交渉の末、最新鋭の技術で公害・煙害を防止することなどを条件に製錬所設置が認められました。直島製錬所の環境重視経営の歴史は、設立の時点から始まっていたのです。

旧直島村との製錬所設置に関する契約書
旧直島村との製錬所設置に関する契約書

終戦後の混乱 操業停止と財閥解体

1945(昭和20)年、終戦。石炭不足や人手不足により、直島製錬所は約1年半の銅製錬休止に追い込まれました。
さらにGHQ(連合国軍総司令部)が制定した財閥解体施策「集中排除法」により、三菱鉱業の金属部門は「太平鉱業(のち、三菱金属)」として分社化を余儀なくされました。
それでも直島製錬所は、日本の復興と発展に不可欠な基礎素材の提供を通じ、力強く成長を続けていきました。

三菱連続製銅法の確立 世界最先端「夢の製銅プロセス」
1991年 新連続製銅炉火入れ式
1991年 新連続製銅炉火入れ式

「原料装入から精製まで、全てを連続で行える製銅プロセス」。1974(昭和49)年、三菱金属はこの、世界中の銅製錬技術者が夢見ながらもソロモン王以来3000年間誰も到達できなかった技術を開発しました。直島製錬所長の永野健(※4)陣頭指揮のもと、オイルショックによる建設難航や、銅の熔体が固まる「鋳付き」を猟銃で撃ち落とすなどの黎明期の混乱を乗り越え、ついに無公害・高効率の夢のプロセス「三菱連続製銅法」を商業化したのです。
1991(平成3)年にはさらに生産能力の高い新連続製銅炉を建設し、今なお世界最先端の誇りを胸に、操業現場・研究者一体となって「技術無限」の開発を続けています。

※4:永野はのちに三菱マテリアル初代会長となり、日経連(現:経団連)会長を務め、従三位、勲一等瑞宝章、直島町名誉町民第一号などの顕彰を受けました。

三菱連続製銅法の確立 世界最先端「夢の製銅プロセス」
1991年 新連続製銅炉火入れ式
2004年 有価金属リサイクル施設稼働

1990(平成2)年、直島に隣接する豊島で、16年間にわたり産業廃棄物が不法投棄されていたことが判明しました。直島製錬所は、香川県が行う産廃中間処理のための土地・製錬所インフラ・従業員の出向等を含む全面協力を決定。さらに、処理後の残渣を製錬原料として再利用するリサイクル事業を開始しました。
これをきっかけにリサイクル事業を強力に推進し、現在では廃棄物処理に留まらず、有償で購入する廃基板類(金銀滓)処理を操業上の重要な柱と位置付け、百周年を迎える2017年の世界トップ到達を目標に掲げ処理量を増やしています。

沿革

年月 主なできごと 既設工場増強
1917年10月 ▶三菱合資会社の中央製錬所として設立  
1918年12月

▶反射炉の操業開始、粗銅産出月300トン産出開始

 
1939年03月  

▶反射炉を更新、粗銅産出能力1,000トンに増強

1945年09月 ▶終戦により銅製錬操業一時中止  
1947年03月   ▶粗銅生産再開300トン
1952年10月   ▶粗銅生産能力月1,000トンに復元
1957年11月   ▶精銅生産能力月3,000トンに増強
1958年01月

▶ルルギ式濃硫酸工場(220トン/日)を新設

 
1960年02月 ▶錫電解工場を大阪製錬所より移設
▶電気錫の生産開始
 
1964年02月   ▶精銅生産能力月5,000トンに増強
1965年12月 ▶2万トン岸壁完成  
1968年05月   ▶精銅生産能力月6,000トンに増強
1969年09月

▶ルルギ式硫酸工場(720トン/日)を新設

 
1969年12月

▶電気銅生産能力7,500トンの第二反射炉、第一電解工場一式完成

 
1973年12月 ▶第一反射炉を廃止  
1974年02月 ▶中和石膏工場操業開始  
1974年03月

▶精銅生産能力4,000トンの連続製銅炉操業開始

▶第一酸素工場完成

▶ルルギ式硫酸工場(1,000トン/日)を新設

 
1974年06月 ▶第二電錬工場操業開始 ▶電気銅生産能力13,000トン
1982年03月 ▶第二酸素工場完成  
1983年04月   ▶連続製銅炉能力7,500トン
1985年12月 ▶中和石膏工場操業中止  
1989年11月 ▶大阪製錬所より貴金属製錬工場移転
▶貴金属の生産開始
 
1991年03月 ▶生野製作所に錫電解工場を移転  
1991年05月

▶熔錬工場(反射炉)、旧連続製銅工場(連続製銅炉)操業停止

▶生産能力月産17,000トンの銅熔錬工場(新連続製銅炉)新設、生産開始

▶第三酸素工場完成

 
1991年10月

▶三菱コミンコ社より生産能力3,000トンの鉛熔錬工場を引き継ぐ

 
1992年01月

▶電気鉛生産能力3,100トンの鉛電解工場新設、生産開始

 
1992年10月  

▶銅電錬生産工場能力15,800トンに増強

1994年04月 ▶中和石膏工場操業再開
▶鉛製錬事業を休止
 
1999年11月 ▶種板工場更新  
2000年05月

▶新酸素工場(オンサイト)完成、精銅生産能力月22,500トンに増強

▶電気銅生産能力月18,500トンに増強
2001年04月

▶環境マネジメントシステム(ISO14001)認証取得

 
2003年02月 ▶溶融飛灰再資源化施設稼動  
2004年02月

▶品質マネジメントシステム(ISO9001)認証取得

 
2004年07月 ▶有価金属リサイクル施設稼動  
2004年10月 ▶貴金属湿式プロセス稼動開始  
2006年03月   ▶電気銅生産能力月19,500トンに増強
2008年04月

▶労働安全衛生マネジメントシステム(OSHMS)認証取得

 
2008年09月

▶ハイパーリサイクル計画(前処理強化によるリサイクル品の増処理)実施

 
2010年12月 ▶TPM優秀賞受賞  
2014年12月

▶平成26年度地球温暖化防止活動環境大臣表彰受賞

 
2016年04月

▶第二金銀滓センター完成